長浜城の歴史・秀吉の築城から徳川による廃城まで

滋賀県の現在の滋賀県長浜市公園町に位置する「長浜城」は、秀吉が築城した城です。ここではそんな長浜城の歴史について紹介していきます。

長浜城の起こり

長浜城は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した城です。

当時の秀吉は織田家の武将として数々の武功を挙げ、近江・小谷城の浅井氏を滅ぼす際にも大きく貢献したと伝わります。

その功を信長に評価されて、浅井氏の領地であった12万石を与えられ、晴れて城持ちの大名とへと出世を遂げた、秀吉の最初の城が長浜城です。

元々、この地は「今浜」と称されていましたが、秀吉が主君・信長の名である「長」の文字を拝領して地名を改名したことから、「長浜」と呼ばれるようになったものです。築城は1573年から開始され、かつての浅井氏の居城・小谷城などから資材が転用されたとも言われています。

現在の天守閣は、独立式望楼型3重5階の鉄筋コンクリート造りのもので、1983年に犬山城や伏見城をモチーフにして建てられました。中は長浜城歴史博物館になっており、秀吉と長浜城のあゆみを見学することができます。

 

秀吉以後の長浜城

1582年に、明智光秀による謀反・本能寺の変で主君織田信長が討たれると、羽柴秀吉は毛利攻めに出陣していましたが、驚異的な反応で対応を見せ、世にいう中国大返しで、京の山崎の戦いで光秀を打ち取ります。

その後、織田家重臣が介した清洲会議おいて、秀吉は居城だった長浜城を、柴田勝家に譲って、代わりに丹波・山城・河内の28万石を領しました。

勝家は、甥の柴田勝豊を長浜城主に置きましたが、1582年に秀吉の攻撃を受けたのち、勝豊は秀吉配下の大谷吉継の交渉に応じて降伏します。続く1583年の賤ヶ岳の戦いで勝家を破った秀吉は、織田家の筆頭の地位を確立、天下人への階段を駆けのぼっていきます。

一方、長浜城の主には「内助の功」で有名な山内一豊が2万石を領して就くこととなり、掛川城へ移るまでの6年間を過ごしました。

その後1606年には駿府城から内藤信成が6万石を領して長浜城主となります。続く内藤信正が2代目を務めますが、豊臣の終焉をなった大坂の陣のあと・1615年に内藤家は摂津の高槻藩に転封されたため、長浜城は廃城となり、領地は彦根藩の井伊家が治明治まで続きました。

 

竹生島(ちくぶしま)

「竹生島」は、長浜城から歩いて約10分の距離にある長浜港から、琵琶湖汽船に乗ること約30分の場所にある島です。島内にある都久夫須麻神社の本殿は、伏見城にあった束力使殿を移築した建物となっています。

また、浅井長政とお市の方の娘であり、後には秀吉の側室となる茶々(淀殿)によって移築されたものと伝わる大坂城極楽橋と、豊国廟に用いられていたとされる極楽門もあります。

更に、秀吉が朝鮮出兵の際に使用した船である「日本丸」の船底部分の骨組みを天井に用いた舟廊下など、歴史的な木造建築物が数多く残されています。