兵庫県洲本市にある「洲本城」の歴史を紐解こう|歴代の領主達と城の持つ特徴とは?

兵庫県洲本市にある「洲本城」の歴史について解説していきます。兵庫に行ったら一度は訪れてみたい場所の一つです。

洲本城の概要|模擬天守としては日本最古

洲本城(すもとじょう)は、現在の兵庫県洲本市に位置する城です。

三熊城の別名をもつ城で、現在の天守は、1928年(昭和3年)に建てられた御大典(昭和天皇の即位式)を記念した、層塔型4重4階の鉄筋コンクリート造りのもので、かつての天守を復元したものではありません。

ただし、模擬天守としては日本で最も古い天守てあり、特筆すべき展望を見せてくれています。洲本城の起こりは、1526年(大永6年)三好氏の家臣である安宅治興が築いたのが始まりとされています。

治興の後、養子の安宅冬康(三好長慶弟)、後は信康、清康が継承し、1581年(天正9年)の織田信長による侵攻時、総大将である羽柴秀吉に降伏しました。

城は秀吉の家臣であり、四国攻めにおいて武功を挙げた仙石秀久が領します。しかし、秀久は秀吉による九州征伐の前哨戦において、薩摩の対島津の戦において失策を犯したことから高野山へ追放になります。

これに変わって脇坂安治が城主に任ぜられ、この時期に天守が造られると同時に石垣の大改修も行われ、朝鮮出兵での倭城の技法「登り石垣」を用いた石垣が築かれました。

洲本城の登り石垣とは?

豊臣秀吉が行った2度にわたる朝鮮出兵に際して、出先の朝鮮半島に築かれた日本側の城(倭城)の防御力を高める目的で採用された石垣の普請の技法のことです。
別名・竪石垣(たていしがき)とも呼ばれています。

鮮半島に築かれた倭城は、大多数が海から通じる船着場を確保して物資や兵員の輸送を行うため、海岸や河の近くに位置していました。本丸と天守は遠くまで見通すことが可能で且つ、防御がしやすい丘陵もしくは山上に築かれました。

兵舎などの建物は平地にあったため、そこから敵の侵入を防ぐ目的で、本丸と港の周りを囲むようにして、山腹の両端に日本式の石垣を築きました。これを指して登り石垣と呼んでいます。

脇坂安治や、加藤嘉明などの朝鮮出兵に従軍した武将たちが、日本に戻ったのち築城や改修に際して、その手法を使用したとされていますが、一国一城令に基づく廃城や、明治以後に破却処分となった城郭が多いため、築かれた箇所などを始めとして、全容が明らかではないものとなっています。

「上の城」と「下の城」

洲本城は「上の城」と「下の城」と呼ばれることがある城です。これは「上の城」とは築城当初から江戸時代に入り、一旦廃城とされた元の洲本城を指すのに使われています。

対して「下の城」とは、江戸時代に入り大坂夏の陣以後に徳島藩・蜂須賀家がこの地を領することとなり、由良に置かれていた城の機能を再び洲本城に移したことから、呼ばれている名称です。

この城の移転は「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれ、城下町ごとの移動プロジェクトとして今日までも伝えられています。