古都奈良の斑鳩、世界最古の木造建築「法隆寺」の魅力とは?

みなさんは奈良と言えば何を思い浮かべるでしょうか。平城京、奈良公園のシカ、東大寺の大仏など奈良には魅力がいっぱいですね。その中でも今日は奈良の中心部からは離れた、斑鳩という閑静な地域にある法隆寺について解説したいと思います。

法隆寺の歴史

法隆寺と言うお寺は皆さん一度は耳にしたことがある名前だと思います。中学校や高校の修学旅行で訪れた方も多いと思います。そして、これから奈良観光に行かれる方もこれを読めばもっと法隆寺を楽しむことができますよ。

まず法隆寺の歴史について解説したいと思います。法隆寺の創建ははっきりした年は分かっていませんが、古文書や仏像の一部に記された記録によると、607年(飛鳥時代)の創建であるとされています。

この頃の日本は仏教が伝わったばかりのころで、日本が他のアジアの地域に引けをとらない国家へと成長をしようとする最中でした。

そのため、大陸で広まっていた仏教を受け入れ、巨大な寺院が造られるようになりました。この法隆寺は聖徳太子がその父である用命天皇のために創建したと伝えられています。

法隆寺は日本に仏教が広まり始めた頃に創建された寺院です。そのため、日本仏教黎明期の古い形式で建立され、古代の姿を現在に伝えるまさに生き証人なのです。

ちなみに、寺院の建物の配置や構造のことを「伽藍配置」と呼び、法隆寺は門から向かって右側に金堂、左側に五重塔、その奥に講堂を設けるといった伽藍配置となっており、これを法隆寺式伽藍配置とよびます。

普段気に留めないようなところにも目を向けて見ると新たな発見がありますね。

 

世界最古の木造建築

そして法隆寺の誇るべき点といえば、世界最古の木造建築であるという点に尽きるでしょう。約1400年もの間奈良斑鳩の地に建ち続け、その歴史を見ていると考えると感慨深い気持ちになりますね。

あなたの見ている法隆寺と同じ風景を聖徳太子や当時の飛鳥の人々も見ていたかもしれません。そんな歴史のロマンを感じることが出来るのも法隆寺の魅力のひとつですね。

 

法隆寺は実は再建された建造物ではないか!?と物議になっている

魅力たっぷりの法隆寺ですが、専門家の中で法隆寺を巡る論争が起きていたことをご存知ですか。実は法隆寺は一度火災で焼け落ち、再建されていたのではないかという説が流れました。

これを「法隆寺再建・非再建論争」と呼び、お互いの専門家同士、文字通り火花を散らすような大論争が繰り広げられました。結局、この論争は最近まで長引いて現在も多くの謎が残っており今後の研究に期待です。

いかがでしたか。古代のロマンを感じる法隆寺ですが多くの謎も残っているお寺です。なにはともあれ、これからも日本の未来を奈良の地から見つめてくれることでしょう。

似ているようで違う京都のお寺”金閣寺”と”銀閣寺”|それぞれにどんな違いがある?

金閣寺と銀閣寺と言えば、日本人であれば誰もが知っている京都の有名なお寺ですね。中学校や高校の修学旅行でも人気の行き先で、とても馴染み深いお寺です。

けれども、金閣寺と銀閣寺ってどんな違いがあるのかについては、あまり知られていません。まるで兄弟のように思われる2つのお寺ですが、どのような違いがあるのでしょうか。

今回は、金閣寺と銀閣寺の秘密を1つづつ紐解いていきましょう。きっと京都に行きたくなること間違いなしです。

金閣寺の歴史

まずは金閣寺から見ていきましょう。金閣寺の正式名称は「鹿苑寺」と言う名前で、あの有名な黄金の建物は「舎利殿」と呼ばれます。

お寺の創建は応永4年(1397年)の室町時代です。室町幕府の3代将軍足利義満によって創建されました。

鹿苑寺の主役である黄金の舎利殿は3階建てで、1階に仏像と創健者の足利義満の像が安置されています。2階は武家様式の造りとなっており、観音像が安置されています。最上部の3階には仏舎利が安置されます。

しかし、現在では黄金に輝く舎利殿ですが、昭和25年に修行僧の放火により全焼してしまいます。現在の舎利殿は昭和30年に再建されたものです。舎利殿の周りには、大きな池がめぐらされ、池の周りを歩いて庭園の美しさを鑑賞します。

このような庭園の方式を「池泉回遊式庭園」と呼び、室町時代を代表する庭園形式のひとつとされます。

銀閣寺の歴史

次に銀閣寺を見ていきましょう。銀閣寺の正式名称は「慈照寺」と呼ばれます。銀閣寺として知られている有名なあの茶色い建物は「観音殿」という名前です。

創建は延徳2年(1490年)の室町時代で、創健者は室町幕府の8代将軍足利義政で、金閣寺の舎利殿を模して造られました。

 

銀閣寺は金閣寺とどこが違う?

金閣寺との大きな違いは、まず見た目です。銀閣寺の観音殿には銀箔が張られておらず、金閣寺と比べるとシンプルで落ち着いた印象です。

これは、銀箔が剥がれ落ちてしまったという訳ではなく、創建当時から元々銀箔は張られていなかったようです。また、2階建ての建物であり、1階は住宅風の造りで2階は観音像を安置する仏堂になっています。

銀閣寺の庭園も金閣寺と同じく池泉回遊式庭園です。江戸時代に改修が行われており、室町時代の面影はほとんど残っていません。

いかがでしたか。金閣寺と銀閣寺、どちらのお寺もそれぞれの良さがあって良いものですね。キラキラして優美な金閣寺、シンプルで物静かな銀閣寺、それぞれの風情を残しながらこれからも京都の顔として、多くの人を楽しませてくれるでしょう。

神社で映画のヒロインになる!?滋賀県近江神社は百人一首の殿堂!

カルタの殿堂!といわれている近江神社をご紹介しますね。

映画「ちはやふる」でかるたの聖地となった近江神社は「秋の田の仮穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」とよんだ天智天皇がまつられています。

かるたの聖地「近江神社」の歴史

天智天皇は百人一首(第一首)のこの句により、かるたの祖神といわれています。天智天皇は中大兄皇子のことで都を奈良の飛鳥から近江大津宮へ遷されたことで有名ですね。さらに天智天皇は水時計(漏刻)をつくり時刻を知らせることをしたのです。

現代の時の日(6月10日)は、ここ近江神社で初めて時を知らせた日であるといわれています(境内には時計記念館もあります)。

これらのことから天智天皇は運命開拓の大神とあがめられ、天皇の即位の礼の際にはかならず天智天皇のことに言及されるそうです。

 

近江神社の所在地

所在地は滋賀県大津市神宮町1番1号で、JR近江神宮駅・近鉄近江神宮駅どちらからも徒歩で10分くらいのところにあります。2の鳥居周辺には多くの句碑・歌碑がありますのでお気に入りを見つけるのも楽しいですね。かるたで有名な近江勧学館は一番奥のほうになりますよ。

 

かるたのイベントが多く行われている

近江神社はカルタの殿堂といわれるように、かるた行事が多いです。年初にテレビで放送される名人位・クイーン戦はどなたでも一度は目にするのではないでしょうか。

競技かるたの日本一を決める大会です。その大会はここ近江神宮でおこなわれます。その他「高松宮記念杯近江神宮全国競技かるた大会」「全国高等学校かるた選手権大会」もこちらで開催されます。

近年の百人一首人気により近江神社は人気急上昇中!

あなたも一度訪れてみてはいかがでしょうか?

近江神社へ観光する時の3つのポイント

ここからは近江神社へ観光する時に必ずやっておきたい3つのポイントを紹介します。

 

映画「ちはやふる」のロケ現場で主役気分!

映画「ちはやぶる」はもちろん近江神社で撮影されていますので、映画のワンシーンをたどりながらめぐるのもありですね。

なんと近江神社ではレンタル着物・袴がありますので本格的な、かるたクイーン気分が味わえるのです。着物レンタル(有料)は境内のみのコース・市内観光もできるコースなどありますので、滞在時間によりチョイスできるのもうれしいですね。

 

時計博物館

日本最初の時計博物館です。平成22年に改装し新しく時計館宝物館としてオープンしました。館内には日本最古の懐中時計なども展示されています。2階には百人一首織かるたなども展示されていますのでお見逃し無いように。

 

ときしめす守

近江神社ならのお守りです。チャンスを切り開いていく開運招福の力を授かりたいものです。受験や就職・転職など多くの節目のお守りにと買い求める人が多く人気の品です。

百人一首に興味のなかったあなたも近江神社にいお参りをしてチャンスをいかしましょう。

【兵庫】日本を代表する港町「神戸港」の歴史とオススメスポットを紹介!

神戸と言えば、やはり日本に居ながらどこか異国情緒を感じられるオシャレな港町ですよね。「東の横浜、西の神戸」などとも呼ばれ、日本を代表する港町です。今回は神戸を代表する観光スポットである神戸港の歴史とオススメスポットをご紹介したいと思います。

神戸港の歴史

まずはじめに、神戸港の簡単な歴史について解説します。神戸港の原型は12世紀後半までさかのぼり、当時は「大輪田泊」(おおわだのとまり)と呼ばれていました。

天然の良港として恵まれ、発展しました。平清盛による港の大修築により栄え、平安時代末期から鎌倉時代前期に当時の中国である日本と宋との「日宋貿易」が行われる日本の玄関口である国際港となりました。

その後も日本一の港として「日明貿易」の拠点や朝鮮や琉球王国の船が出入りしました。幕末には新潟、長崎、横浜と共に開港され、以後より国際色豊かな港として発展し現在に至ります。

 

順調に発展した神戸港に悲劇が…

順調に発展した神戸港ですが、平成のはじめに悲劇が襲います。阪神淡路大震災です。この地震で神戸港は甚大な被害を受けました。しかし、その被害にも負けず、2年後には見事に復興し神戸のみならず、日本の経済を支える港として活躍しています。

現在でも、震災の被害を後世に語り継いでいくために、震災遺構として神戸港震災メモリアルパークとして公園の一角が整備されています。地震で破壊された港の岸壁は揺れの激しさを物語る貴重な場となっています。

 

神戸港のオススメスポットはココ!

次は神戸港の夜景についてオススメスポットと合わせてご紹介します。

まずは神戸のシンボルともいえる「神戸ポートタワー」からの夜景です。高さ108メートルのタワーから神戸港と神戸の街並み、六甲山を望むことができます。

その景色はまるで宝石を散りばめたような、美しさです。神戸港の夜景スポットとして外せない場所でしょう。

続いて「高浜岸壁」と「神戸ハーバーランド」です。神戸港を代表するスポットで、神戸ポートタワーや街並みを背景に、行き来する船舶を眺めることができるスポットです。

海面に反射するビルの明かりがとても幻想的で、時間を忘れて眺めてしまいそうになるでしょう。

一人でも、カップルでも、家族でもどんな人でも楽しめる夜景スポットです。さらに神戸ハーバーランドには、ショッピング施設やアミューズメント施設が充実しています。

海の夜景以外にもライトアップされたケヤキの並木道やエキゾチックなレンガ倉庫など、様々な夜景が楽しめます。

いかがでしたか。神戸港は今も昔も、日本の海の玄関として栄えました。これからどのように神戸の町を彩るのか楽しみな場所です。

大阪の花博記念公園鶴見緑地の歴史とおすすめについて!

大阪にある花博記念公園の歴史とおすすめスポットを紹介していきます。

花博記念公園ができるまで

平成2年4月、大阪府では42年ぶりとなる国際博覧会「国際花と緑の博覧会」が大阪市鶴見区で開催されました。当時としては史上最高の83ヵ国、55国際機関が参加して、世界一の大博覧会になりました。

しかし、国際博覧会開催の翌日には会場内を遊覧することができた「ウォーターライド」の転落事故が発生してしまいます。それ以降もトラブルが続き、「事故博」とも揶揄されるほどになってしまいました。

事故博と揶揄されたのが逆に知名度を上げ、結果的に9月末までには目標であった2000万人を越えて「約2300万人超」の人が訪れました。この成功の背景には、これまで行われてきた花博と一線を画していたことにあります。

環境問題を共に考えようと花博が掲げたテーマは「自然と人間との共生」。このテーマは、博覧会国際事務局も追随し、1994年の総会で「現代社会の要請に応える、今日的なテーマ」だと有することを条件に掲げました。花博の成功は、博覧会の歴史を変えたと言っても過言ではありませんでした。

花博記念公園ができるのは、「国際花と緑の博覧会」が閉幕後です。花博が開催されていたのは「鶴見緑地」という広域公園で、1970年4月に開園しました。博覧会閉幕後に公園施設の再整備や新規開設を進め、現在では花博を冠にした「花博記念公園鶴見緑地」の呼称になりました。

 

花博記念公園鶴見緑地のおすすめ

花博の閉幕後も各国のパビリオンを利用して、乗馬場や球技場、運動場、温水プール、パークゴルフ場など様々なスポーツ施設を整備しており、花博の時の国際庭園はそのまま保存しています。

創立から40年近く経っているので「老朽化」が心配されていますが、「この状態が逆にいい」というコスプレイヤーが撮影に利用され、現在では若者の人気スポットになっています。

自分的には、花博記念公園鶴見緑地のおすすめと言えば「街のエリアにある風車」です。

この風車は、花博記念公園鶴見緑地のシンボル的な存在なのですが、「風車の丘」と呼ばれている場所にあります。

風車と聞くと「オランダ」と思う人も多いと思いますが、この風車は、オランダから設計図を取り寄せて建築されたもので、花博が開催される前から存在していました。この風車の下には、たくさんの「季節の花畑」が作られており、時期によって「チューリップ」「ひまわり」「サルビア」「コスモス」など季節ごとに草花の景色を楽しむことができます。

世界に誇る美しい京都の五重塔を知って楽しもう!

みなさんは「京都」と聞いて思い浮かべるのは何でしょうか。京都といえば、お寺と思う方も多いと思います。

そして、京都のお寺と言えば五重塔を有するお寺も多く、ガイドブックや絵はがきに登場して、古き良き古都の雰囲気に一層深みを持たせてくれます。今回は京都に存在する五重塔の魅力と簡単な概要について解説いたします。

法観寺の五重塔の魅力とは?

まず、はじめに京都市東山区「法観寺」の五重塔です。こちらの五重塔は「八坂の塔」の別名で親しまれており、古い商店の並んだ小道からそびえる五重塔の写真を一度は見たことがあると思います。

いかにも京都らしい風景で、心が安らぎます。

五重塔は国の重要文化財に指定されています。また五重塔内部は一般に公開されており、二層目まで登ることができます。

ちなみに、この塔を有する法観寺は伝承によると592年創建の歴史の長いお寺です。あの有名な聖徳太子の夢の中に観音様が現れたことにより建立されたそうです。

 

世界文化遺産に登録された仁和寺の五重塔

次にご紹介するのは、京都市南区「仁和寺」の五重塔です。こちらの塔は、寺全体も含めてユネスコの世界文化遺産に登録されています。

仁和寺は仁和2年(886年)の平安時代に創建された寺院で創建当時も五十塔が建てられていましたが、度重なる火災で焼失してしまい、創建時の五重塔は残っていません。

現在の五重塔は寛永14(1637年)の江戸時代に再建されたものです。仁和寺の五重塔は塔の周辺が庭園のように整備されており、秋にかけては紅葉と五重塔のコラボレーションを楽しむことができます。

 

木造の塔で日本一の高さを誇る東寺の五重塔

次に紹介するのは、京都市南区「東寺」の五重塔です。この五重塔は塔の高さが54.8メートルで、木造の塔としては日本一の高さを誇ります。

京都駅に到着する東海道新幹線の車窓からも塔の姿を望むことができ、まさに京都の顔といえる五重塔です。東寺の五重塔は寛永21年(1644年)の江戸時代に建立で、先ほどの仁和寺の五重塔と建立年代が近いため、似ている特長を持っています。

2つの五重塔を見比べて見るのもおもしろいでしょう。

 

京都で最も歴史がある醍醐寺の五重塔

最後の塔は京都市伏見区「醍醐寺」の五重塔です。この塔は天暦5年(951年)の平安時代に創建されており、京都市の五重塔の中で最も建立年代が古い五重塔になります。京都中を荒廃させた応仁の乱などでも生き残った、なんとも奇跡的な五重塔です。杉林の中に凛と建つ五重塔からは、何か見えない力を感じます。

いかがでしたか。京都の五重塔はそれぞれ個性があり、歴史があります。京都観光の際には、ぜひ五重塔に注目して見てはどうでしょうか。

兵庫県洲本市にある「洲本城」の歴史を紐解こう|歴代の領主達と城の持つ特徴とは?

兵庫県洲本市にある「洲本城」の歴史について解説していきます。兵庫に行ったら一度は訪れてみたい場所の一つです。

洲本城の概要|模擬天守としては日本最古

洲本城(すもとじょう)は、現在の兵庫県洲本市に位置する城です。

三熊城の別名をもつ城で、現在の天守は、1928年(昭和3年)に建てられた御大典(昭和天皇の即位式)を記念した、層塔型4重4階の鉄筋コンクリート造りのもので、かつての天守を復元したものではありません。

ただし、模擬天守としては日本で最も古い天守てあり、特筆すべき展望を見せてくれています。洲本城の起こりは、1526年(大永6年)三好氏の家臣である安宅治興が築いたのが始まりとされています。

治興の後、養子の安宅冬康(三好長慶弟)、後は信康、清康が継承し、1581年(天正9年)の織田信長による侵攻時、総大将である羽柴秀吉に降伏しました。

城は秀吉の家臣であり、四国攻めにおいて武功を挙げた仙石秀久が領します。しかし、秀久は秀吉による九州征伐の前哨戦において、薩摩の対島津の戦において失策を犯したことから高野山へ追放になります。

これに変わって脇坂安治が城主に任ぜられ、この時期に天守が造られると同時に石垣の大改修も行われ、朝鮮出兵での倭城の技法「登り石垣」を用いた石垣が築かれました。

洲本城の登り石垣とは?

豊臣秀吉が行った2度にわたる朝鮮出兵に際して、出先の朝鮮半島に築かれた日本側の城(倭城)の防御力を高める目的で採用された石垣の普請の技法のことです。
別名・竪石垣(たていしがき)とも呼ばれています。

鮮半島に築かれた倭城は、大多数が海から通じる船着場を確保して物資や兵員の輸送を行うため、海岸や河の近くに位置していました。本丸と天守は遠くまで見通すことが可能で且つ、防御がしやすい丘陵もしくは山上に築かれました。

兵舎などの建物は平地にあったため、そこから敵の侵入を防ぐ目的で、本丸と港の周りを囲むようにして、山腹の両端に日本式の石垣を築きました。これを指して登り石垣と呼んでいます。

脇坂安治や、加藤嘉明などの朝鮮出兵に従軍した武将たちが、日本に戻ったのち築城や改修に際して、その手法を使用したとされていますが、一国一城令に基づく廃城や、明治以後に破却処分となった城郭が多いため、築かれた箇所などを始めとして、全容が明らかではないものとなっています。

「上の城」と「下の城」

洲本城は「上の城」と「下の城」と呼ばれることがある城です。これは「上の城」とは築城当初から江戸時代に入り、一旦廃城とされた元の洲本城を指すのに使われています。

対して「下の城」とは、江戸時代に入り大坂夏の陣以後に徳島藩・蜂須賀家がこの地を領することとなり、由良に置かれていた城の機能を再び洲本城に移したことから、呼ばれている名称です。

この城の移転は「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれ、城下町ごとの移動プロジェクトとして今日までも伝えられています。

長浜城の歴史・秀吉の築城から徳川による廃城まで

滋賀県の現在の滋賀県長浜市公園町に位置する「長浜城」は、秀吉が築城した城です。ここではそんな長浜城の歴史について紹介していきます。

長浜城の起こり

長浜城は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した城です。

当時の秀吉は織田家の武将として数々の武功を挙げ、近江・小谷城の浅井氏を滅ぼす際にも大きく貢献したと伝わります。

その功を信長に評価されて、浅井氏の領地であった12万石を与えられ、晴れて城持ちの大名とへと出世を遂げた、秀吉の最初の城が長浜城です。

元々、この地は「今浜」と称されていましたが、秀吉が主君・信長の名である「長」の文字を拝領して地名を改名したことから、「長浜」と呼ばれるようになったものです。築城は1573年から開始され、かつての浅井氏の居城・小谷城などから資材が転用されたとも言われています。

現在の天守閣は、独立式望楼型3重5階の鉄筋コンクリート造りのもので、1983年に犬山城や伏見城をモチーフにして建てられました。中は長浜城歴史博物館になっており、秀吉と長浜城のあゆみを見学することができます。

 

秀吉以後の長浜城

1582年に、明智光秀による謀反・本能寺の変で主君織田信長が討たれると、羽柴秀吉は毛利攻めに出陣していましたが、驚異的な反応で対応を見せ、世にいう中国大返しで、京の山崎の戦いで光秀を打ち取ります。

その後、織田家重臣が介した清洲会議おいて、秀吉は居城だった長浜城を、柴田勝家に譲って、代わりに丹波・山城・河内の28万石を領しました。

勝家は、甥の柴田勝豊を長浜城主に置きましたが、1582年に秀吉の攻撃を受けたのち、勝豊は秀吉配下の大谷吉継の交渉に応じて降伏します。続く1583年の賤ヶ岳の戦いで勝家を破った秀吉は、織田家の筆頭の地位を確立、天下人への階段を駆けのぼっていきます。

一方、長浜城の主には「内助の功」で有名な山内一豊が2万石を領して就くこととなり、掛川城へ移るまでの6年間を過ごしました。

その後1606年には駿府城から内藤信成が6万石を領して長浜城主となります。続く内藤信正が2代目を務めますが、豊臣の終焉をなった大坂の陣のあと・1615年に内藤家は摂津の高槻藩に転封されたため、長浜城は廃城となり、領地は彦根藩の井伊家が治明治まで続きました。

 

竹生島(ちくぶしま)

「竹生島」は、長浜城から歩いて約10分の距離にある長浜港から、琵琶湖汽船に乗ること約30分の場所にある島です。島内にある都久夫須麻神社の本殿は、伏見城にあった束力使殿を移築した建物となっています。

また、浅井長政とお市の方の娘であり、後には秀吉の側室となる茶々(淀殿)によって移築されたものと伝わる大坂城極楽橋と、豊国廟に用いられていたとされる極楽門もあります。

更に、秀吉が朝鮮出兵の際に使用した船である「日本丸」の船底部分の骨組みを天井に用いた舟廊下など、歴史的な木造建築物が数多く残されています。

京都の円山公園から高台寺、霊山歴史館に至る道|観光にはオススメ!

京都市内にある円山公園は、四条河原町から四条通をまっすぐ東へ歩いて行きます。

そしてどんつきにある、八坂神社から入ることも出来ます。円山公園は、昔は八坂神社の境内でしたが、明治初期の廃仏毀釈の一環として土地が没収されてその後、京都市民のための公園になりました。

円山公園のオススメコース

すぐそこに大きな池があり、春にはしだれ桜の大木がものすごく美しく咲くので有名です。

北へ向かうと、知恩院や青蓮院などの大寺院があって見どころ満載なのですが、ここからなんとなく長楽館を見ながら南に歩いて行くと、なかなか趣のある狭い道が続き、そして歴史を感じるお寺もあって、こちらもおすすめのコースです。

ここから近いところにある高台寺は、豊臣秀吉の正室、あの北政所お寧々さんが晩年を過ごしたお寺です。秀吉が亡くなった後、大坂城を出てその後落飾し高台院となった北政所には、家康が手厚い対応をしました。

北政所は、関白の正室の名称なので関白の夫人はだれでもそう呼ばれるはずなのですが、寧々さんの存在があまりに大きかったせいか、彼女以後は北政所は寧々さんだけをさすようになったということです。

秀吉は晩年、あれだけ側室をたくさん抱えて、しかも名家の姫君好きで鳴らしていました。そして最晩年に、淀殿が秀頼を産んでも、子供のない北政所を離縁もせずに添い遂げたのです。

 

高台寺は北政所お寧々さんのために作られた

また、方広寺の鐘に因縁を付けてまで大坂城の秀頼を滅ぼした徳川家康が、寧々さんには高台寺を建てて、大名並みの1万石の知行も増額して、手厚く遇したということは、寧々さんの存在が、まだ残っていた秀吉子飼いの大名たちにとっても、無視できない、いかにすごい存在だったか、また人間的に魅力のある人だったのではないかと思うのであります。

この高台寺は何度も火災にあったせいで、創建当時の建物はわずかしか残っていないのですが、霊屋のご自身の木像の下に、寧々さんが永眠されているそうです。

ここの坂が石畳になっていて、とても素敵な雰囲気で、ねねの道と呼ばれています。そしてここからまた南へ行くと、左手に霊山へ通じる坂道が見えてきます。

この霊山への坂道を上ると、明治維新、幕末の時代のファンならば、絶対に見逃せない霊山歴史館があります。そして霊山には、坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓の他にも、桂小五郎こと木戸孝允、池田屋事件で殺害された久坂玄瑞らのお墓もあるのです。霊山護国神社には彼ら維新の志士たちが祀られています。

 

清水寺もすぐ近くにある

そして、ここを下ってさらに南へ行くと、清水寺です。また、この路線のバスはいつも観光客でいっぱいなので、がんばって歩いて七条まで行くと京都国立博物館があります。

ここの所蔵には、坂本龍馬の直筆の手紙のコレクションなどがあり、歴史ファンには見逃せないところです。

このお向かいには三十三間堂もあり、ここまで歩けばさすがに疲れてしまわれるかもしれません。でも、歴史ファンならば、京都に来てよかったという思いでいっぱいになり、そしてどっぷりと歴史に浸れた幸せを実感されることでしょう

京都の古い町家の典型「うなぎの寝床」とは?

京都の町家と言えば、間口狭く、格子があって趣のある小窓の外の軒下に、犬矢来とか、猫矢来と呼ばれる、竹で出来た柵があります。

そして玄関を入ったところには土間があり、奥へのくぐり戸を開けると土間にお台所があります。玄関から上がると、畳のお部屋が続いていて、お座敷の向こうには
しゃれた石灯籠や苔むした中庭が作られています。

そして、さらに奥に行けば、お蔵があって庭もありというのが、典型的な「うなぎの寝床」です。

間口が狭いうなぎの寝床

間口が狭いのは、江戸時代に「間口税」と言うのがあったせいで、庶民の知恵の節税からこういう作りになったのだそうですが、このうなぎの寝床の古い街並みが続くと、まるで江戸時代にタイムスリップしたようで、歴史ファンとしては感激するのです。

京都というところは盆地にあるせいで、夏は蒸し暑く、冬は北海道出身の方でも悲鳴を上げるほどの底冷えがひどいのですが、このうなぎの寝床は、夏を涼しくするように色々工夫されているのです。

まさに徒然草の「家の作りようは夏を旨とすべし」を地で行っているのですね。6月頃になると、軒下に簾をたらして、お座敷の障子戸が、竹や葭(よし)で作った夏用の障子に、畳の上には、つるつるひやっとした網代(あじろ)が敷かれて、涼しくする工夫や間仕切りを行う建具替えが行われ、夏仕様に変わりました。

かの昭和天皇の侍従長で、ご自身も公家の出身である入江相政氏が、同僚から、あんな底冷えのする京都の気候で、あのすき間風のひどい家に住み続けたから、公家は冷たい人間になったのだと言われたので、昭和天皇に言いつけたと書いておられたのを読んだ覚えがあります。

ちょっと言い得て妙な感じもします。

 

京都の家々は外から見えない小窓が並んでいる

また、京都の古い家は決まって外から中は見えない、格子の付いた小窓が並んでいますが、あれは家の前の道を歩いている人をこっそりと覗くためなのだということです。

実際、左の角から3軒目、次の右側の角まで3軒目の家の、玄関の土間、玄関隣の畳の間、6畳の間の外に面した格子の窓からは、前の通りの角から角が全部見えるんだと、教えてもらったことがあります。

こういう感じで、ご近所の人が誰も外に出ていなくても、京都では誰かが見ているんですね。

 

司馬遼太郎の小説でもモデルになっている

司馬遼太郎氏は、お若い頃、京都大学詰めの新聞記者をされていたので、戦後すぐの頃の京都人を観察しておられたのでしょう。

その雰囲気が、小説の一シーンにあらわれていました。「燃えよ剣」では、長州の密偵の古高俊太郎は古道具屋升屋喜右衛門に化けていたのですが、近江人で京都人ではなかったために、ご近所さんたちの好奇の目にさらされていたこと。

そして外出の行き先を京都人のように「ちょっとそこまで」と曖昧にごまかすことが出来なかったので、新選組に密告されて囚われ拷問の末に長州の陰謀が明らかになり、池田屋事件が起きたのでした。

 

現在、古民家再生のムーブメントがきている

うなぎの寝床、やはり現代の生活とは合わないせいか、どんどん取り壊されて新しい家に建て替えられたり、駐車場になったりと、絶滅の危機に瀕していたのです。

しかし、現在では、古民家再生ブームもあって、古い家を再生してカフェにしたり、学生さんや芸術家の集合住宅となったりと、活用されて残されているのは嬉しいですね。