滋賀にある「彦根城」の歴史~天守が現存して現在まで受け継がれている名城~

彦根城は、井伊氏の拠点として建てられた平山城です。城が建てられた彦根山が金亀山と異名を持っていたため、金亀城(こんきじょう)ともいわれてます。

1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川四天王の一人井伊直政はその功績により、徳川家康より近江北東部18万石を与えられました。最初は、佐和山城に入城しましたが、佐和山は石田三成の居城であったこともあり、琵琶湖岸の磯山(現在米原市)に井伊直政により築城を計画されました。

1604年に彦根城の築城が開始する

しかし、直政は関ヶ原の戦いの怪我がもとで1602年死去したため、直継により引き継がれました。引き継がれた際、直継は幼少だったため、家老の木俣守勝が遺志を引き継ぎ琵琶湖に面した彦根山(現在の彦根市)に1604年築城が開始されました。

築城には、奉行3名つけられ尾張藩など15大名が手伝いを命じられるなど天下普請で築城されました。

築城に際しては、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築され、その他佐和山城などから資材が運びこまれ築城に用いられ築城されました。そのため、わずか2年で天守が築城されました。

1606年には2期工事まで完了し、直継が入城しました。1616年からは彦根藩のみで3期工事が開始され1622年には全ての工事が完了されました。

 

彦根城が築城された目的

彦根城は攻め落とし難い城として建てられました。その目的の一つには、江戸幕府より天皇を匿う命を受けていたからです。

また、江戸幕府の西国への備えも担っておりました。徳川の統治下の江戸時代には、軍事施設という役目は終えていきました。1854年には、天守櫓の大修理が行われ、その際石垣の半分は積みなおされるなど改修をしております。

井伊氏は加増を重ね、石高30万石となりました。そのほかにも、5万石が幕府から与えられていたので譜代大名最大の35万石となりました。幕末には、大老となった井伊直弼も藩主となるまで、この城の城下で過ごしていました。井伊氏14代の居城として彦根藩は、明治まで存続しました。

 

彦根城は廃条例を逃れた城である

明治になると、多くの城が廃条令により、取り壊し、売却されましたが、明治天皇の命により彦根城はその危機をのりこえ現在でも天守が現存する城となっています。

昭和時代には、観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木が植えられました。1944年に井伊家から彦根市へ彦根城及びその一帯が寄付されました。

1952年に天守と附櫓及び多聞櫓の2棟が国宝指定されています。また、馬屋は重要文化財指定物として稀少な存在であります。

現在は世界遺産登録に向けて、彦根城世界遺産登録推進委員会が設置されています。

滋賀の国宝「彦根城」徳川四天王のひとり井伊直正の意志を受け継いだ城

彦根城(ひこね じょう)は、滋賀県彦根市金亀町に位置しているお城です。明治の廃藩置県が行われるまで当地を治めていた彦根藩の居城として使われていました。

ここでは、彦根城の概要やその起源について紹介していきます。

彦根城は「国宝」に指定されている

全国に12城のみが残る現存天守の内のひとつに数えられるお城で、天守や附櫓、多聞櫓は国宝にも指定されています。城跡は特別史跡として、琵琶湖国定公園第1種特別地域にも指定されています。

天守が国宝に指定されているお城は、全国に他に5つ、犬山城、松本城、姫路城、松江城があります。

 

彦根城の概要

彦根城は、江戸時代の初めに、今の滋賀県彦根市金亀町にあたる彦根山に、西日本に睨みを利かせるべく、徳川家重臣の井伊家が拠点として築かれた平山城(標高50m)です。

彦根山は別名「金亀山(こんきやま)」とも呼ばれているため、お城も金亀城(こんきじょう)とも呼称されています。江戸時代に譜代の家臣として、数多い大老を輩出した井伊氏の14代に渡る居城として栄えました。

多くのお城が明治に入り廃城令に伴って破却される中、その難を逃れ現在でも天守が現存する稀有なお城となりました。通説によると、明治の政治家・大隈重信が行った上奏によって建物が保存されることになったとも伝えられています。

国宝でかつ世界遺産に指定されている姫路城と並んで、往時の遺構を遺している城郭となっていますが、1992年に日本における世界遺産の暫定リストに挙げられつつも、世界遺産の登録の厳格化が推進されたこともあり、以後の推薦は実施されていません。

 

彦根城の起こり

徳川家康を支え、後に徳川四天王の一人に数えられた武闘派の武将・井伊直政は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際して武功を挙げ、18万石の近江国北東部に領地を与えられて、この地を豊臣時代に領していた石田三成の居城・佐和山城へと入りまいた。

佐和山城も「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」とも謳われ、音に聞く名城でしたが、直政は、戦国期の縄張りであったこと・三成の居城であったことなどを理由に新しい城を築くことを欲していたと伝わっています。

この新しい城の候補地が、琵琶湖岸に近い磯山でした。しかし計画半ばで、関ヶ原の戦で受けた傷が元となり1602年(慶長7年)に死去します。

直正の死を受けて井伊直継があとを継ぎますが、幼少だったこともあり、直政の家老を務めた木俣守勝が徳川家康と談判したと言われています。

結果、直政の遺志を受け継いで、1603年(慶長8年)に琵琶湖に面した彦根山に新しい城となる、彦根城の築城に着手したと伝わっています。