奈良県にある「大和郡山城」の歴史と代表的な城主について紹介するぞ

大和郡山城は、現在の奈良県大和郡山市に位置していた城です。明治維新後に建物は取り壊され、今ある梅林門や、手隅櫓、追手向櫓は復元されたものとなっています。

ここでは。そんな大和郡山城に関して紹介していきます。

大和郡山城の歴史

その歴史は古く、1162年(応保2年)まで遡るとされています。

現在復元されている「大和郡山城」の外観

以降、大和国の領主となった武将・大名たちによって居城とされてきた城です。戦国時代以後、大まかには、筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛、筒井定慶、水野勝成、松平忠明、本多政勝、柳沢吉里などが入城し、この地を統治していました。

 

筒井順慶の時代

「天下布武」を掲げた織田信長の後援を得た筒井順慶は、天正8年(1580年)に大和国守護に任じられ、大和郡山城に入りました。翌1581年(天正9年)からは、当時の織田家の重臣であった明智光秀が城の普請目付を務めて、大規模な近世城郭への拡張工事が行われたと伝わっています。

1582年(天正10年)に光秀による謀反・本能寺の変の際には順慶は、光秀より加勢を頼まれ洞ヶ峠への出陣を促されます。しかし順慶は光秀への助力を行わず、世の趨勢を傍観します。

ここから態度を鮮明にしないことを指す「洞ヶ峠をきめこむ」という故事が生まれています。

 

豊臣秀長の時代

1585年(天正13年)からは、豊臣秀吉の実弟にあたる豊臣秀長とその養子豊臣秀保が大和・和泉・紀伊の三国の領主として郡山城に入りました。大納言の官位を持ち、100万石にも及んだ領主の居城としてふさわしい規模にするため、城郭作りや
城下町の整備がされました。

当時の大和国は石材が不足していために、天守台の石垣に、徴用された墓石や石仏(地蔵)まで使用され、現在でも逆さまになった状態で埋もれている地蔵を見る事ができます。

 

柳沢吉里の時代

1724年(享保9年)に郡山城へ入城、郡山城主柳沢家初代となったのが柳沢吉里です。前任地の甲府藩においても、柳沢吉保・吉里の親子は、甲府城の修復、城下町としての整備や各種施設の増設を実施し、物流の活性化を図り、城下を振興させた政治手腕が伝わっています。

吉里は、こうした経験を駆使して、郡山に養蚕をもたらし奨励しました。また、自らも趣味であった金魚も伝えたことで、郡山の地では金魚養殖が行われるようになりました。

幕末には下級武士の副業や、明治維新の後には録を失った藩士達や農家の副業として隆盛を極めました。今日では、大和郡山の金魚養殖は日本の最大の産地となっています。